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2009年1月15日 (木)

津波

地震、雷、火事、親爺は日本人が日常体験する災いを怖い順に並べたもの。でも時代と共に少し色合いが変化してきている。地震が一番怖いのは今も昔も変わらないが親爺の怖さは既に色あせつつある。熟睡中の火事は逆に新建材の登場で恐ろしさをつのらせる。 ところで、津波はこれに入らない? こちらはNHKが地震のたびに予報してくれるがほとんどが「津波の心配はありません」か、あっても30CM~40CMで小波程度。だから恐ろしさは感じない。でも、でも・・・。

明治29年に押し寄せてきた三陸津波では今の三陸町辺りで波の高さがなんと38メートル!に達したという。こうなると波ではない。山が押し寄せてきたようなものだ。三陸海岸全体で死者22,000名。体感震度3度くらいの揺れの後だったという。三陸海岸は歴史的に見て世界でも有数の津波の多いところ。記憶に新しいのは1960年のチリ津波。チリで発生した地震が22時間後にこの海岸に押し寄せてきた。津波の伝播の速さは深海5,000メートルで時速800キロにもなるという。ほとんどジェット機と同じ速さだ。波の高さは4M程度だったが142名が犠牲となった。

津波といえば機転により村民400人の命を救った村長の話が思い起こされる。幕末の1854年12月紀州藩広村を襲ったできごとである。Photo_6
そのとき地鳴りを伴ってゆったりとゆれる地震に気づいた浜口儀兵衛村長は海を眺めて不気味なものを感じた。海が沖へ沖へと退いていくのである。昔からの言い伝えを思い出した村長はこれは大津波の前兆だと直感した。眼下の村を見ると村民は祭りの準備に忙しく立ち働いている様子だ。村長はとっさに村民に危急の事態を伝えなければいけないと考え急いで松明に火をつけ田に干してあった稲藁(いなわら)を燃やした。Photo_4
火はたちまち田んぼ中の稲藁に燃え広がった。家族の者は儀兵衛の気がふれたとおののいた。「庄屋さんの家が火事だ!」半鐘が鳴り響いた。村民たちは火事を消すために丘を登ってきた。村長は若者達に事情を話し年寄りや子供を一刻も早く非難させるように指示した。やがて水平線の向こうから壁の様なうねりが轟音と共に押し寄せてきた。そして山や家や木を崩しなぎ払ってまたゴウゴウと沖へ退いていった。寄せては引く大波が2度3度と続いた。村長は火事で多くの私財を灰にしたが満足だった。村人全員が助かったのだ。人々は彼の前に膝間づいて先見の明、臨機応変の措置と犠牲的精神に感動し口々に感謝の言葉を述べた。

我が家からは東京湾がわずかに垣間見れる。最近は大気が澄んで房総の方まで望見できて気持ちがよい。でも喜んでばかりはいられない。津波とは読んで字のごとく港を襲う高波という意味である。湾や入り江は普段は外海とは違って波穏やかである。しかしいったん地震や台風で大波が押し寄せると地形により波が増幅され津波となって大暴れする。浦安は東京湾のどん詰まりにある。現に過去に何度も津波の洗礼を受けている。1770年代には5年間に3度も津波の被害にあったと記録に見える。東京湾とは反対方向に我が家から30分ほど歩いたところに猫実(ねこざね)という町がある。そこに豊受(とようけ)という神社がある。Photo_5
1293年に起きた大津波で甚大な被害を蒙ったので神社付近に堅固な堤防を築き松の木を植えて津波に備えた。これ以後津波がこの松の根を越すことがなかったので人々は波が「根を越さねぇ」松と呼ぶようになった。それが「ねこざね」→猫実になったといわれる。浦安という名前自体に「浦(入り江)の安全」をという悲願が込められている。浦安にとっては地震ばかりでなく津波も怖い。私も呑気に海を眺めてはいられない。

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